Ⅳ.表と裏のない世界

写真4-a メビウスの帯のわたり棒
 ふしぎの国のわたり棒は全体が輪になっているのだけれども、なにか少し変だ。輪の低くなったところはその上にあがりやすいから、そこからわたり棒の上に載ろう。そして坂を上るように、梯子はしごの上を這ってゆこう。(写真4-a)
「わー高いところへきてしまった。ちょっと怖いな、四つん這いで行こう。」
「あれ、今度は下りだ。向きを変えて足を下にしなくちゃ、頭から落っこちちゃうよ。」
「よいしょっと、やっと下へ降りてきたけど、あれあれなんで、梯子の下へぶらさがってしまったの」
「うわ―、背中が地面に付きそうだ、足と手でぶら下がって渡らなくちゃ―」(写真4-b)
「さっきはここの上を歩いていたのに、変だなー、裏側にきてしまった。梯子をくぐったりしていないのに。」
「やっと上りになったぞー、ここでまた体の向きを変えて頭を上にして、梯子の裏を登る。

 誰にも教わらなくたって、われわれみんなおサルの親類だから自然にそのようにするのだ。そして一番高いところへ着いたら、足を離して手だけでぶら下がり、身体を振って得意のわたり棒のしぐさで前へと進む。やがて梯子はまた下り始めるが、足をかけて梯子の面に沿って降りてくれば、アーレふしぎ、最初の振り出し点に戻り、梯子の上を歩いているではないか。「えー、なんでー。2度回ったら元にもどっちゃったよー。」

写真4-b メビウスの帯のわたり棒
 実はこの梯子は、メビウスの帯の形をしているのである。メビウスの帯とは、紙テープを20センチぐらいの長さに切り、その両端を持って、片方だけ半回転ねじって裏返し、そのまま両端をあわせて張り合わせた形の輪のことである。今から百数十年前メビウスという数学者が考え出したものである。

 このメビウスの帯に色を塗ってみよう。普通のテープの輪ならば表と裏を別の色で塗りわけることが出来るが、メビウス帯の輪は、ふしぎなことにそれが出来ないのだ。ためしに色をぬってみよう。マジックインキでテープの中央に線をひいてゆくだけでもよい。赤いマジックで線をひいて、ずーっとずーっと引いて行くと、最初の位置にもどって線がつながる。よく見ると裏側にも赤い線がひかれているだろう。普通の輪なら、裏側に線はない筈だ。メビウス帯の輪には裏側というものがないのである。裏と表というものがなく、ただ一つの面しか持っていない世界なのである。こんな世界はまだほかにもある。

 クラインの壺というのはメビウスの帯のきょうだいである。ふしぎの国では、メビウス帯のわたり棒のすぐとなりに立っている青い色の怪物みたいな形のジャングルジムがそれである。この巨大な壺は、緑の芝生の上に4本の足を踏ん張って支えている円形の枠の台に載っているのだ。(写真5)
「さあみんな、ペンキ屋になったつもりでこの怪物に色をぬっていこう。」

写真5 クラインの壷のジャングルジム
 子ども達は空想の世界で、ジェスチャアたっぷりの身のこなしで色を塗り始める。まず外側からだ。はやい、はやい。
「そこはもう塗ったよ、その眼鏡の穴の中も塗ったかい。これでもう上側は終わりだ。さあ今度は底だ。」

 壺の底はロープで編んだ網でできているので、この網の下側を塗ってゆく。すると自然と中央の穴の中へ吸い込まれて、壺の中へとつづくトンネルの内側を塗りながら進む。これはちょっとした冒険である。トンネルは壺の頂上までくねりながら上りつめ、そこから今度は下りになる。幸い外が透けて見えるから眺めは悪くない。しかしからだがやっと通れるくらいの狭いトンネルだから、下りは頭が下になる。それでもペンキを塗るジェスチャアは忘れずにつづけながら子どもらは数珠つなぎになって進む。やがて下に広い空間が見えるところへ出た。
「わー、壺の中の部屋にでたぞー。だけど、どうやって下へ降りたらいいんだ。いま頭が下になっていて、体と足はトンネルの中なんだよー。これじゃ頭から落ちちゃうよ。」(写真5-a)
といいながらも子ども達はおサルのようにうまく身を丸めて、やや広くなったトンネルの出口付近でくるりと方向転換して上手にクラインの壺の中の部屋に降り立った。ただ、体の大きい大人は、トンネルをどうにか通過することが出来たとしても、ここで方向転換をすることは無理なので、頭からこの部屋に下りることになるだろう。

写真5-a クラインの壷の中に入る
 ここは子ども数人がたむろすることが出来るくらいの広さである。
「さあ、みんなこの部屋の壁も塗ったかな」
「うん、もう全部塗ったよ。ここでおしまいだね、もう塗るところないもんね。」
「そう、これでおしまいです。ところでよく考えてごらん、この部屋の壁の色は、この外側の色と同じではなかったかな。」
「あ、そうだ同じ色だ。メビウスと同じだ。ふ―ん、ふしぎだ。」
といって、みな壺の中から辺りを見回し、改めてこの『表と裏のないふしぎな世界』の魅力に取り付かれている。

 かれらはこのクラインの壺を自分達のお城にして、子どもだけでお弁当を食べたり、話をしては寝ころんだりする。壺の内側から黙っていつまでもこのふしぎな壺の構造を眺め回している子どももいる。

 こんな彼等が、いつの日かその豊かな創造力を伸ばして、果てしない科学探求の道や、工学的応用の道へと歩みだすときが来ることを期待して止まない。

メビウス=August Ferdinand Moebius 1790―1868 プロイセン生まれの天文学者、数学者。
クライン=Ferik Klein 1849―1925 ドイツの数学者。デュッセルドルフ生まれ。23歳のときエルランゲン大学の教授となり、ミュンヘン大学教授、ライプチヒ大学教授を経て1886年ゲッチンゲン大学教授。
「メビウスの帯」・「クラインの壺」= 位相数学(トポロジー)の分野で『ただ一つの面しか持たない奇妙なかたち』としてよく知られている。メビウスの帯は縦に二つに切っても一つの輪である。クラインの壺を縦に半分に切ることが出来るとすると、メビウスの帯が二つできる。


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